令和時代に男はどうすればモテるのか?

ぷにまる
スポンサーリンク
スポンサーリンク

2019年5月より、日本は新しい元号、令和になりました

昭和の中後半から平成にかけては、男は度胸みたいなことが言われてたけど、実際の婚姻っていうのはお見合いというのも割と普通にあったんだよね。

今回は昭和〜平成〜平成の終わりにモテと恋愛がどう変化したのかってことをピックアップ!

昭和の恋は男が強い?意外な昭和の恋愛事情について

昭和の男 って聞くと、なんだか男気があって世話好きででも優しいみたいな感覚ってありませんかね?

本当は違うんです。昭和という時代が男をそうさせてたんですね。でも今でも昭和の男の人は強いので、時代というものの大きさには驚かされます。

女性の権利と雇用問題

戦前は省略します。戦後の日本では戦争後の復興も後押しして瞬く間に経済が成長していきます。

この経済の成長に貢献したのは昭和の男なんですよね。

この時代の女性は、新しい憲法(2019年時点で存在している日本国憲法)によって権利を守られているかに思われますが、戦前の風習や文化的な側面を引きずっていたので、男性に対する発言権や男性と同じ労働を行っても男性程は稼げないというのが時代の背景にあるんです。

つまり、女性が生きていくには、(今の時代には考えられませんが)男性が必要だったんですね。

男の方も、そんな時代背景やこの時代の風潮感もあって、女を守るもの、稼いでナンボという男の像があった訳です。この像こそが、昭和の男を強くしていたのではないでしょうか?

この風潮感自体はバブルが弾ける平成初期まで引きずる形を取ることになりますね。

ただ勘違いしてもらいたくないのは、時代背景があったからこそ通用していた恋愛像、家庭像なのです。昭和に生まれて昭和に恋していた男女にはその時代にしか体験できなかったこういった恋愛。そこにあるのは、「男たるもの」「女たるもの」のモテる美学があったのです。

平成はバブル?いやいや失われた○○?いやいや…

平成は激変の時代でした。それは恋愛事情も同じくです。

昭和後期〜バブル時代にめざましく活躍した女性歌手

平成に入ると女性の活躍というものに大きく注目が集められます。特に時代を現してると思うのはこの時代の流行りの歌ですかね。

中森明菜氏や工藤静香氏、プリンセスプリンセスなどなど、女性歌手がオリコン総ナメするような時代でした。彼女たちが歌う姿はあの時代の誰もがカッコいいと感じたのではないでしょうか?前時代の女性像はそこには感じられないものだったと思います。

強い男に対する強い女。この平成の時代には「女たるもの」という価値観がどんどん変わっていきます。

バブルに乗れない男女の葛藤

バブルと聞くと派手な衣装を身にまとい、一万円札でタクシーを拾うようなイメージがあるかも知れないけれど、違います。

そんなバブルを謳歌できたのは大中小規模の会社の役員さんや決裁権限を持った上級サラリーマンの方たちです。

もちろん前時代よりも景気が上がっていく感がヒリヒリ伝わってくるほどの熱気を帯びていた時代ではあるんですけど、それは下級サラリーマンやその時代の学生なんかには上流ほどの熱量は測れませんでした。

このバブルに乗れない感、何も失ってないのに何かを失ったような感覚、でも景気は上がってるぞ!!という周りの風潮。これらが渦いている男女には何が起きたんでしょうか?

槇原敬之氏の歌詞から考える男というものの変化

槇原氏の名曲「どんなときも。」

彼が22歳の時リリースされたものですね。

この頃にはバブルは終焉に入っていますが、そのムード感や勢いはまだ止まってません。

彼が歌ったのは、男たるものという概念を覆す、自分らしさというような内面の自分でした。

男は黙って〇〇というような形式にハマらない新しい歌詞で、2010年以降の草食系の走りではないかと思ってます。ただ、そう言った自分もあっていいという歌が広く人々を惹きつけたのではないでしょうか?バブルに乗れないモヤモヤした気持ちを代弁しているようにも感じられます。

この辺りから男の強さが内面の強さや個性という事にも焦点が当てられます。

いつでも繋がるポケベル短い文字列に見る心遣い

バブルが終わりやがて景気の下降が感じられる頃、ポケットベルという今の時代には考えられない、数字しか送れない無線機器が日本でも流行りました。

今の時代でいうSNSやメールみたいなものですが、これらとポケベル時代の決定的な違いは、会って話す、電話で話す、が当たり前の時代だったということです。

会って話すのが当たり前の時代、どんなタイミングでも相手と繋がれるという事がどれだけ貴重だったか。そこにはメッセージを送る側と送られる側それぞれに、相手の顔と会えない時間が共有されていたのです。ネットが無くてもそこにこんな時代背景があれば誰かと誰かの時間が共有されるのは不思議なものです。

PHS、携帯電話の普及とWindowsから始まる個人のインターネットの始まり

1990年の半ば〜後半に入ってくると、ポケベルからPHSへとコミュニケーションの形が変わっていきます。それと同じくパーソナルコンピューターが大きく売り出されました。

これによって、誰とでもいつでも連絡を取れる体制が始まったことになります。しかしまだまだこれらを持っている人は少なかったので、男女の恋愛が大きく変わることはありませんね。

ただしこの頃になると、不景気感が日本全体を包み始めていたので、金がなきゃ恋愛もままならんという本質的な事を言われ始めるのでした。

モテるのは結局金持ち?不景気にこそ分かる恋愛の価値

時代は所謂就職氷河期時代に入ります。

若者は居ているけど職がない。自分らしさを求めてフリーターになったり旅に出る若者も珍しくありません。

結局お金がなければ何も生まれないのでしょうか?

答えはイエスでありノーでしょう。お金があるとは、つまり自分の何かがお金になると言えます。ただ、お金になるかどうかは時代背景やタイミングや巡り合わせも大きく影響します。お金は恋愛の本質的な部分なのでしょうか?

金では買えない男女の恋愛ドラマと恋愛像

この時代の恋愛像は月9に代表されるような恋愛だったと言えます。なんせこの時代、月9の視聴率は20数%という数値でしたので。ドラマみたいな恋、それはつまりは恋愛至上主義に他なりません。大恋愛の末、相手を知り、自分を知り、そして未来を思う。そんな恋はテレビの話ですが、誰しも恋愛にはストーリーがあるものです。もっと言えば、それはお見合いであっても、大恋愛はあるはずなのです。その一つ一つは価値あるもののはずです。

恋愛したい男と女、女と男

ドラマに夢見る男女が多かったのは視聴率からも明白でしょう。他にもリアリティショー的な恋愛番組ももてはやされました。この時代は恋愛そのものが売り物になっていたんですね。

恋愛が売り物になるとはどういうことでしょうか?それは、こうすればモテる、モテる女はナントカカントカ、なんちゃら恋愛攻略法等々。モテるためにはこれが必要だ。恋愛にはこれは外せない。しかし本当にそうなのでしょうか?一つ言えることは、この時代に流行った月9ドラマは多くの男女の心をひいたという事です。この心を引いたものは何モノなのでしょうか?それは時代が変わっても共通する何かなのでしょうか?ここに恋愛、ひいてはモテる事の本質がある気がします。

2000年代への突入 メールの登場と新しい出会いのカタチ

2000年代に入ると、携帯電話にメール、パソコンにメール、これらのことが当たり前になってきました。

メールが当たり前になったことで、生まれた文化に出会い系があります。

今で言うガラケー専用のサイトも多く登場し、そんなガラケー専用サイトで顔も名前も知らない男女がメールを通じて会うことが始まりました。

そこには、残念ながら、割り切った関係を望む者が多く、悲しい恋を送る男女が多かったのです。しかし、男女関係というものに新しい文化が生まれたのも事実です。

文字だけのやり取りの中のモテる者とモテざる者

今の時代では当たり前のことですが、テレビ電話や写真をネットにアップロードしてSNSで共有したり等々、動画や画像というものが手軽に扱えます。しかし2000年代の初めには、まだガラケーに写真を撮る機能が無かった機種が多かったため、メールのやり取りは基本的に文字と顔文字の組み合わせでした。

そんな中、文字だけのやり取りでもモテる男はモテたのです。モテない人とは何が違ったのでしょうか?この時代には、コミュニケーションはレスポンスの速さとマメさを求められていました。前時代なら家にいる時間まで待つ、相手の都合が良くなるまで待つ、待ち合わせの約束をしてそれを守る、留守電にメッセージを残す等々、相手との折り合いを模索しながらになる為、どうしてもレスポンスやマメさは求められても限界がありました。

連絡の速さは脈アリ?文字のやり取りから見る恋愛戦略の変化

今の時代にも通づることですが、この時代から相手のリアクションの速さで脈があるとかないとかの話が始まります。これから見えてくるのは、好きな相手とならいつでもどんな時でもコミュニケーションを取りたい筈だ、という前提です。逆に言うと、すぐに連絡を取らない、取れないと言うこと、他の誰かが既にコミュニケーションを取っている可能性も出てきたわけです。いつでもどこでも連絡を取れる弊害でもありますが、この弊害こそがこの時代に取り巻いていた男女関係のキモでもあります。つまり恋愛戦略でいうと、いかに早くいかにマメにコミュニケーションを取るかという事が求められました。ただ、この戦略は今も活きる戦略なのでしょうか?前時代には、確かに相手を思い相手を待つ時間があったわけで、そこにあったコミュニケーションや思いやりはどうなったのでしょうか?時代とともに変わるコミュニケーションの中にも普遍的な男女の心を掴むものが何かを見定める必要がありそうです。

iPhoneやスマホの登場とSNSによる第三コミュニティの発展

時代は2010年代に入ります。時代のキャッチが速い人はiPhoneを、そうでなかった人々もスマートフォンを使い始める時代に入りました。

これらの携帯電話が人々をよりネットに近づけます。人々がネットと近くなるとは、言い換えれば、リアルとネットの境目が限りなくゼロに近づき始めたということです。

これより前の時代のネットは、どこか電脳世界のような、現実とは違うが現実として存在しているという少し遠い存在でした。しかし、ネットと現実の距離が近づくにつれて、ネットにも現実が現れ始めました。つまり、ネット上のコミュニケーションがリアルのコミュニケーションとほとんど変わりなく行われるようになったのです。それらが顕著に現れているのがSNSです。

SNSによって匿名本名のネット上のコミュニケーションが活発になります。これは恋愛においても全く同じで、ネットが全く絡まない日常のコミュニティ、ネットが全く絡まない非日常のコミュニティ、ネットを前提としたコミュニティ等々、恋愛が複雑化します。

そんな複雑化した恋愛におけるモテるとはどのようなことでしょうか?メールが普及したときのようなレスポンスの速さなのでしょうか?昭和のように頼れる男像を持つことなのでしょうか?それともこの時代の攻略術があるのでしょうか?

ネットの弊害と性格差の広がりと男というもの

ごく最近の時代を語るにこの問題は外せません。つまり全くモテない男が3割位いるという統計が出てしまったのです。それも2010年代に入ってからより顕著になっていきます。

スマホによってネットの閲覧がより手軽に行えるようになりました。これによって変わったことは何でしょうか?ネットの閲覧ならそれより前の時代でも出来ました。僕がこの件について考える一つの答えが、ネットとリアルの境界線が相当近づいているということです。つまりどちらか一方、または両方でモテている者はよりモテ、そうでないものはよりそうでなくなっていく。しかもコミュニティは複雑化していて、どんな場所でも目立つ人が存在している時代です。注目はさらなる注目を集めます。

目立てばモテるのか?「いいね」に見え隠れする自己承認欲求

どんなSNSにもいいね機能がついて回る時代ですが、このいいねを稼ぐために派手なことを行い、ニュースになる事も珍しくなくなりした。

いいねを集めることはモテることなのでしょうか?自分が認められることで果たしてモテるようになるのでしょうか?確かなことは、それが演出であっても注目を集めることが一種の快楽になっているということです。

令和時代のモテるということ

今までいろいろな時代の移り変わりを考えました。古代から現代まで、一つ確かなモテる男はお金持ちであるということです。ただそれではあまりにも悲しくあまりにも単純です。

ネットのコミュニケーションもリアルのコミュニケーションもほとんど変わらなくなりました。しかも多様化した文化の中で、好きなものも嫌いなものも人それぞれ全く違う世の中になっています。この時代に必要なのは、個人の魅力なのではないでしょうか?

様々なコミュニケーションの中で自分の需要と供給、つまり、自分は何から求められて何を求めるのか?これと個人としての魅力を合わせれば自分の需要の中の供給不足、つまりモテるという答えに近づくような気がします。

タイトルとURLをコピーしました